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この『生活の中の十字架の道』は、マリアの御心会のインド北管区から送られてきたニュースレターからの抜粋です。ムンバイの共同体でこのテキストが紹介され、会員たちからの、「もっと多くの会員たちに広めたい」という希望にそってニュースレターに載ったものを使わせていただきました。(実は、昨年の四旬節に送られてきたのですが、翻訳が間に合わなかったので今年の四旬節になりました)

本文中のアルファベット表記はヒンディ語です。読み方をカッコ内に入れました。また、ヒンズー教の神々に関する記述などでは、絵などで注を加えました。

このテキストが、少しでも私たちの四旬節の糧になりますように。

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原作は1991年に出されたSaadhi Ishpriyaji-サーディ イシュプリアジの “Kalkalnaadini”-カルカルナーディニの中の一部である。

Saadhi Ishpriyajiはカトリック教徒である。キリスト教が「西の文化の手足である」という概念は、少しずつ変わってきてるけれども、インド人の間では普通に信じられていることである。作者は、自分の考えを学者と意見交換しながらインド文化と精神性を観察し、勉強することに多くの年月を費やした。この本を一読すれば、そこにインドの精神性:不殺生(不暴力)、Shauch-スアッチュ‐(純粋)、Tapas-タパス‐(厳しさ)、Svaadhyaaya-スヴァダハヤヤ‐(自己追求)、が表われているのが分かり、インドキリスト教徒のために、このような作品は大きな重要性を持っている。

 インド文化と精神性について興味をもつキリスト教徒はこの本を読むことをおすすめする。


生活の中の十字架の道

I. イエス、死刑を宣告される。

SATYA(サッタヤ)-  真実

この状況において何が真実なのか?

宣告は、ある人が力を持っていて、他の人が無力であることを意味している。

誰が力を持っているのか?「彼を十字架につけよ」と命令を出す人か? または、「だれも私から私のいのちを取り上げることはできない。私は、自分のいのちを保つ力と再びそれを取り上げる力を持っている」言うことができる人か?

神よ、この決定的瞬間において、私たちに、私たち自身の真実でない世界へのより深い洞察を与えてください。

私たちに、誰が力を持っている人で、誰が本当に無力な人であるかをわからせてください。 真実の姿をあらわしてください。愛すべきその真実を愛することをわたしたちに教えてください。そうすれば、私たちは見えるようになるでしょう。

II. イエスは彼の十字を取り上げる。

SANTOSH(サントシュ) -  満足

快く苦痛を受け入れること。それは、愛していた人々から見捨てられ、軽べつされて、拒絶されることを意味していた。

満足。 私たちのこの言葉についての理解はどれほど小さく狭いものだろう!  私たちは、自分が存在し、喜び、満足、自己達成を与えるであろうすべてを持ちたいと望み、すべてが私たちとうまくいく時に、私たちは自分が満足しているとみなしている。

キリストは、満足が何を言おうとしているかを私たちに示す。 それは、おん父のみ旨を行うことである。

「私は父のみ旨だけを行う」。

私の食物と私の飲み物は、父のみ旨を行うことである。

神よ、私たちが誤って、私たちに満足を与えるであろうと思われるすべてのことを捨てることを教えてください。

そして、ためらわずに完全に、何も残すところなく、あなたが十字架の道の途中で休まれたように、休むためには後ろに戻ることなく心からあなたの仕事を受け入れることをできるように導いてください。

私は何と言うべきだろう?

「父よ、私をこの時から救ってください」だろうか?

いいえ、私がここに来たのはこのまさしくその時のためでなかったか。

父よ、あなたのみ旨は行われるでしょう? ・・・それで、私は満足です。

はりつけの責任者たちは、イエスを引きずりだし、十字架の道へ押しだす。

III. イエス、はじめて倒れる。

AHIMSA(アヒムサ)-  非暴力

暴力によって暴力に抵抗しないように。

これは、自己防衛そして、自分と自分を愛する人を守ろうとする内在的な本能をひっくり返すなんと奇妙で、不可能な反論だろう。

神よ、あなたは、私たちの愛についての理解が本当にどれほど浅いかをもう一度、私たちにお示しになります。非暴力の人であるためにはどれほど強くなければならないことか。

もう一方の頬を差し出すことができて、行くように頼まれる時にさらに2マイル歩くことができる人、コートを盗む人にまたマントも与えられる人は、ほんとうに愛することができる強い人である。

主よ、あなたは倒れられたことによって、私たちに愛のどれほどの高みにあなたの人類が引き上げられたかを教えてくださった。それは、すべての人類の暴力を抱擁し、愛をもってその力をもとにもどすためであった。

IV イエスは母と会う。

解放へと導くこの小道の途上、どこかで、イエスは立ち止まり、唯一彼を理解する一対の眼を見出すときがあったと、伝統は私たちに語っている。 そして、イエスは母と出会う。

SHAUCH(シャウチ)- 清らかさ(清純さ)

神の心を忠実な心でもって長い間見つめることから来る魂の完全な落ち着き。

この瞬間に主を取り囲んだすべての醜さ、偽り、無知、罪、歪み、および堕落は、人間の肉体に与えられた神性を通して清らかさ(清純さ)によって破られた。

人として外観を損なわれた顔は、母の瞳には美しいものとして輝いて映っていた。

主よ、私たちに清らかさを理解することを教えてください。私たちは、どれほど容易に曲解したり、醜さ、不完全さと妥協し、それを受け入れ、誇りとしていることか。

顔がハンセン病、飢え、または残酷さによって傷つけられようとするとき、私たちに不快感を与えることから、私たちはどれほどすばやくそれらから私たちの顔を守ろうとすることか。

隠れた神を見つめた眼だけが私たちの中で、外観を損なわれたものを剥ぎ取り、純粋なものを明らかにすることができると知るために清らかさ-Shauch-の価値を教えてください。

V シモン、イエスを助ける。

彼らは群衆から一人を引きずり出し、イエスの後ろから十字架を背負わせた。彼がそれを好んだかどうかにかかわらず、そのときからシモンはBRAHMACHARI(ブラーマチャリ)-神の後に従う人-になった。

あなたの体にかかっている十字架を自分の肩に載せながらその重み自分のほうへ移し、十字架を握る手もあなたの手を真似ながら、一歩、一歩、シモンはあなたになんと近く従ったことか。 彼はこんなことを期待もしていなかったし選びもしなかったが、あなたにしっかり結ばれていた。十字架を担わせられた前と後のシモンの心中を私たちどれほど知っているだろうか。しかし、ヨガの小道で、今、あなたは私たちに教えられた。神の後に従うとはどういう意味か、それは-非常にシンプルなBRAHMACHARI(ブラーマチャリ)のいのちをあらゆる場にゆきわたらせることなのだと。

私たちが、現在の生活の本当の意味を理解できるように助けてください。足を引きずったり、時々、休むために十字架をちょっと下に置くことはできない。自分の歩く速度または自分の行く道を決めることはできない。

修業者-BRAHMACHARI(ブラーマチャリ)になるということは、自分のやり方、自分の生活などという自分の意志や望みではなく、あなたにより近く従うことであり、あなたの歩幅に合わせて歩くことであり、あなたが歩くように私も歩くことである。

VI ベロニカ、イエスの顔を拭く。

群衆に押し出された女性は、その単純な、多分無意識で、多分ちょっと怖がったしぐさで彼女が持っていた布切れの上にイエスの顔を写し取った; イエスの面影は彼女の所有物となった。

ASTEYA(アスティヤ)無所有 (持たないこと)

あなたは、そんなに容易にあなたの面影を布に残された。そうしながら、あなたは、ベロニカおよび私たちに、もし私たちが本当にあなたのみ顔の跡を望むなら、私たちの存在という布地全体にそれを染め付けられなければならないと教えられる。 それでも、ベロニカがみ顔の跡を保持したならば、彼女は現実を失うであろう。

所有への道は非所有の道のそばにある。 「そんなに私に固執しないでください」。 「自分のいのちを保つ者はそれを失うであろう」「明日のことは心配するな、あなたの聖なるおん父は、何があなたに必要であるかを知っている」。

主よ、あなたは私たちに、あなたの愛が言っていることを教えてくださる:

あなたはこれが必要ですか?では、取りなさい。そして、あなたが再び必要な時に、戻ってきてまた頼みなさい。今日のパンを取りなさい。昨日のパンはすでに古く、明日、また何かが必要かもしれない。あなたが私から望むものは何でもあなたに与える。

VII イエス、二度目に倒れる。

TAPAS(タパス)苦行の激しさ-痛悔の熱

熱は天から下に燃え下り、そして石から燃え上がった。キリストは、天と地の間で燃えた熱の中に2度目に倒れた。

タパス-神を捜し求める人の心の中の熱い望みによって起きる熱。 この瞬間、神よ、あなたは私たちに、どれほど私たちがこの燃えている熱を知らないか、どれほど私たちが熱望を知らないか、どれほど私たちが光、太陽、私たちの熱望が完全に焼き尽くされるのを恐れて、陰と闇の涼しさに身を隠すためにはどれほど俊敏であるかを教えてくださる。 神を捜し求めるために焼き尽くす火になる人の心の中の熱望にとって、 神は焼き尽くす炎であり、その炎の道に入り、Tapasyaa(タパシャア)のいのちに入ることは神との一致の道である。

あなたが燃えている石の上で倒れた時に、あなたは私たちの中に燃えている熱い望みの炎に譲歩することが、肉の利己主義の上位に立つことであり、神によって焼き尽くされることであることを教えてくださった。

VIII エルサレムの女性は嘆き悲しむ。

沿道の女性たちは泣いていた。イエスは彼女らに警告した: 「女たちよ、なぜあなたは私のために泣いているのか? むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け」

SVAADHYAAYA(スヴァダハヤヤ) -  自分を知ること、自分についての知識。

これらの女性たちは、自分たちが、なぜ自分たちの心が悲しんでいたかを知っていると思った。 彼女らは互いに、無実の者が拷問を受け死に向かって曳かれていくのを見て話し合って泣いていた。しかし、主よ、あなたは、私たちの憐れみがどれほど表面的なものであるか、私たちの涙がどれほど自己満足の涙かを教えてくださった。

私たちは私たち自身の心の奥深いところを知らないし、私たちはおん父の道を理解していなかった。 私たちが自分自身を知らなかったので、ほんの少しの表面的な涙を流した。 婦人たちよ、もし、あなたたちが自分自身を知っていたら、あなたは自分のために泣く理由をたくさん見つけるであろう。そのとき、あなたは、自分自身のために泣いてよいだろう。

「エルサレムの娘たちよ、私のために泣くな。自分自身とあなたの子供のためにむしろ泣きなさい」。

神よ、私たちに、私たちが、SVAADHYAAYA(自己認識)の小道に留まるために必要な謙遜と忍耐を与えてください。

IX イエス、3度倒れる。

APARIGRAHA(アパリグラハ) - 必要品を蓄えない

あなたが3度目に倒れたこの瞬間に、あなたは何を残したというのか、ほとんど失われた体力; そして、私たちはどのぐらい自分のものを蓄えていることだろう。 非所有という点にたどり着くために私たちは決して自分の蓄えを放棄しないだろう、また、あなたが私たちの唯一の財産であり、あなただけが私たちを満たしてくださるというのに私たちは決して自分を空にしないだろう。

一度、二度、三度そしてそれ以上に何度も、あなたは人生についてのこのレッスンを教えてくださっているのに、私たちはいつも、聞くことを断った。

何も持っていない人は、すべてを持っている人である。 あなたの富を蓄えてはなりません。 「野の花を見なさい。 私の父の目には、これらの雀よりもあなた方は無限の値があるのである。」それでも、まだ、あなたは自分の物をしまうために倉へ行く。自己評価、自己保護、自分を楽しませるもの、自分を楽にするものという宝を蓄えるために倉へ行く。

「求めなさい。そうすれば、与えられるであろう」と説いてくださっているにもかかわらずどのくらいの時間をこの『宝の家』のまわりをうろついて時間を浪費していることか。

神よ、あなたが何も持っていなかった時にすべてを持っていたことを教えてください; そして、私たちが持っていたい物を捨てない限り、私たちはそれらによって所有されているのだということを教えてください。

X イエス、衣服を取り除かれる。

所定の場所に来たイエスは死の覚悟をする。

VAIRAAGYA(ヴァイラーガヤ) – 離脱

どこかに、神よ、私たちはおのおの、自分達の正当な財産として保持し、主張できるであろう布の最後の切れ端を持っている。 しかし、これは、あなたのSNYAASA DIKSHA(スニアサ ディクシャ)の瞬間である。すべての所有物、名前、家、家族を剥ぎ取られて、あなたが苦しみの水際に立ち、真実の宇宙であるすべての創造物とともに一人となられた。あなたの心は放棄の中で完全に染められ、すでに外を覆う衣類は全然必要でない。最終的に完全に、まったく自由に、あなたはこの世に釘付けられることができる。

神よ、私たちに、私たちの自由についての理解がどんなに浅いものであるか、私たちがどんなに少ししかVairaagyaに向かっていないか、自由の中で創造された私なのにどんなに縛られているかを教えてください。

XI イエス、十字に釘付けられる。

剥ぎ取られ、裸のあなたは十字架に釘付けされて、あなたの心は完全にKARUNAA(カルナ)-憐れみ となった。

この世に対して自由であるあなたは自ら進んでこの世の愛の中にご自分を縛り付けられようとなさる。あなたを拷問した人々へのあなたの唯一の‘復讐’は、あなたの彼らへの完全な赦しであり、それは赦し以上のものである。 愛したい、そして、あなたを憎んでいる人々によって愛されたいという望み。

「父よ、彼らが、自分が何をしているかを知らないので、それらを許してください。」苦しんでいる人間の潮のうなりのような苦悩の声はこの世界のために、憐れみの信じられない苦痛の中から希望を超えておん父に嘆願される。

神よ、私たちはどんなに少ししか理解せず、学ぶことにどんなに遅いことか。

XII イエス、息を引き取られる。

父よ、あなたは私を見捨てるのか?

KAIVALYA(カイヴァリャ)-孤独の極限-のとき。

人が完全に一人になったときの圧倒的な繊細さ; そして、その瞬間の後に、イエスはおん父の腕の中にゆだねる; 「神よ、あなたのみ手に私をゆだねます」

神よ、何世紀にも渡って数多くの男女は無数の方法と様式でもってあなたと共にヨガの小道に登り、一人ひとりは完全な孤独、KAIVALYA(カイヴァリャ)に達した。

「ああ、主よ、神よ。」

XIII イエス、十字からおろされる。

PRAPATTI(プラパッティ)- 愛の明け渡し

彼らが見せることのできたあらゆるぎごちない優しさでもって、涙に暮れている弟子たちは十字架のもとで待ち受けている人々の肩の上にあなたの肉体をおろして、十字架の木からあなたを自由にしようと努める。たぶん、そのとき、彼らは明け渡しが何を本当に言おうとしているかを理解した。

PRAPATTI、これは、私たちからねじれて離れている生活なのではなく、おん父にいつも穏やかに、堅く明け渡されている生活なのである。私たちがお互いにお互いの生活を担い合うとき、この同じ生活が私たちにもいつも明け渡されているのである。

神よ、完全な明け渡し-PRAPATTIの現実が私たちに何を要求しているのかをもう少し理解することを私たちに教えてください。

XIV イエス、埋葬される。

あなたの解放の小道はついにすべて歩かれ、ゴールに到着した。ついに、神へのISHWAR PRANIDHAN(イシュワル プラニダン)-聖別(神聖化)はやって来た。

「そして、彼らは没薬と香油で、イエスの体を塗布した」これは最後のすばらしいAbhishek(アビシェク)であり、これは神に完全にささげられたヨガのゴールに到着した人々の最後の聖別式である。

そして、Abhishek(アビシェク)を終えた後、彼らはイエスをSamaadhi(サマディ)置いた。

〔注〕Abhishek:ヒンズー教の聖水をかける式。

   Samaadhi:これは死の準備のできた人を置いておく特別の場所。

XV イエスは生きている。

"MRITYUNJAYA SATPURUSHA"(ムリティンジャヤ サトプルシャ)- 真実の人、死の征服者は墓から出た。AVIDYA(アヴィダ)- 非知識の、心の冷たさの、幻想の、臨死の石を蹴り飛ばして死を征服した。そして、霊の力に震えて、新しい創造、命の永遠の躍動のNATARRAJ(ナタラージュ)になる。

「私が来たのは、あなたたちがいのちを得るためであり、そのいのちが豊かになるためである。」

〔注〕Ntarraj:Dancing God。 踊りの神と呼ばれる女神で悪を抑えている。〔図参照〕



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