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ベトナム巡礼旅行記(3)

巡礼4日目

 この日も8時に出発。T神父様は、巡礼中、初めてローマンカラーで出発されました。統一会堂(旧大統領官邸)やドクちゃん・ベトちゃん家族が生活をしている産婦人科病院を車窓から見ながら、ホーチミンの大司教館に向かいました。

 1887年に建てられた司教館は、現在、小聖堂として使用されていて、静かな祈りの場と感じました。聖櫃は代表的なベトナム建築物の形をしていました。もともとはその建物の中で皇太子を教育するときに使われたものだそうで、王室をうかがわせる装飾が多々残っていました。約束どおり、朝8時半からファム・ミン・マン現枢機卿にお会いすることができ、集会室で2月に日本に来られたときの経験や感想を交えたお話を伺いました。

枢機卿のお話

 「たかとり教会のイエス様のご像は、20年前ベトナムの信徒がベトナムから運んだものだ。阪神大震災のときの長田区の火事で、たかとり教会も、司祭館の一部を除き、聖堂も何もかも焼け落ちたが、イエス様のご像は無事であった話を聞いて感動した。また、震災のとき、自分の子が生き延びることのみを考えた母と子の実話を聞いて、イエス様のなさったことを思い起こした。

 4〜50年前、すべてを捧げつくして4人の子どものいる家族を支える母の愛を描いた日本の映画を見たが、日本の母親が神に近い姿であり、神が人になるという証と言える。今同じものがあれば、是非、ベトナムの人々に見せたいと思う。

 日本人の築いてきたしきたりや伝統は尊敬に値する。ベトナムの信徒にも是非教えてやりたい。日本に留まらず、よいものはどんどん広げて分かち合ってほしい。

 迫害時代、信徒から没収したイエスのみ心のご絵をみていた役人の一人が、なぜ見えるものでない心臓が外側に描いてあるのか不思議に思い、拘留した信徒に尋ねたりした。自分も考えて、ある夜ひらめいたことは、「体内無心者、体外有奇心(「自分を顧みることなくすべてを人に与えつくす愛」という意味)」であった。私は、このみ心のご絵を作りたいという申し出に対し、み心の右側と左側にこれらの言葉を書き、み心からは血がながれているように描くことを条件に、許可した。」

 

 枢機卿は、私たち巡礼団にいくつかのお土産を用意してくださっていました。枢機卿考案の5色のロザリオとロザリオの意向をまとめたリーフレットを、また、全員には行き当たらないけれども、先ほどのイエスのみ心のご絵を、私たちの代表に託してくださいました。

 ロザリオは、枢機卿が教皇からいただかれたロザリオを参考にして考案されたもので、5色の玉が使われているのは5大陸を意味し、地球上のすべての人々のために祈ることを示唆しています。そしてそれぞれの色の意向を、ベトナムに帰って祈りながら考えられたそうです。

・             黄色:物質的に貧しい人々のため
・             赤色:文化的に貧しい人々のため
・             白色:心(信仰)の貧しい人々のため
・             茶色:健康に恵まれない人々のため           (教皇からいただいたものは黒色)
・            青色:すべての人々の神とのつながりのため

 「ロザリオの祈りは、『マリアとともに神の愛を味わうこと』、『お互いのために祈りあうこと』が大切です。私は日本のために祈ります。みなさんもベトナムのために祈ってください。木に水が潤いを与えるように、祈りは、生活に、家庭に、社会に潤いを与えます。それぞれの社会、地域に、家庭に潤いをもたらすものです。」と締めくくられました。

 ロザリオの意向のリーフレットはベトナム人画家に依頼して完成させられたそうです。「光の玄義」を加えて、20の意向をまとめられています。枢機卿はこのベトナム語のリーフレットを、「日本語に訳す」ことを条件に、私たちが日本語版を作ることを許可してくださいました。 枢機卿と全員で記念撮影のあと、バスでフー・ハイン教会に行きました。10時過ぎになりましたが、そこで司教代理と主任司祭の共同司式によるミサに与りました。

 私たちのバスガイドさんが偶然カトリック信者であり、ご自身がオルガニスト、奥様がメンバーということで、急遽このミサに聖歌隊を呼び寄せて参加してくださることになりました。聞くところによると、朝4時半のミサのあと、私たちのために練習してくださったということでした。自営業の方がほとんどで、日中のミサであってもメンバーを揃えてくださいました。この聖歌隊に混じって巡礼団の有志も、聖歌隊席で日本語の聖歌を歌いました。何とも素敵な経験でした。

 この教会の主任司祭は、日本とベトナムの架け橋となった、この教会に所属するベトナム人看護師と日本人のご夫婦を紹介してくださいました。妻の熱心さに打たれて、夫とお母さんが受洗されたということでした。また、東京で2年半の間、勉強していたというベトナム人の夫と日本人の妻のカップルも紹介してくださり、教区内に5、6人の日本人の信徒がいれば、日本語のミサをすることが可能になるので、発掘に努力しているということもお話くださいました。

 70歳を超えて日本語を習うのは難しいけれど、日本語ミサを立てられることこそ夢だという神父様の熱心さに、心を打たれました。

主任司祭のお説教

 「トゥァン司教と同じ13年間を牢獄で過ごした経験があります。解放されてからも元の教区に戻ることができず、ホーチミン教区に入って司牧し、40年間が過ぎました。

 1965年から1975年の間、フエの無原罪の修道院の隣にある大神学校にいました。そのころ、ニャ・チャン教区の司教となられた(1967年)トゥァン司教が、たびたび講座を開かれたので出向きました。

 その後に再会したのは1975年、刑務所でした。1988年に解放されたあと、従軍司祭は北に移送されたが、トゥァン司教は軟禁状態を解かれませんでした。

 ローマに逃れられたトゥァン司教を1997年にお訪ねしたとき、司教と2人で写真を撮りました。それ以後、再会はかないませんでしたが、送ってくださった最後の短い手紙を今も大切にしています。そこには、「この間お会いしたことをよく思い出します。一緒に食事をした中華料理のレストランはいつでも開いて私たちを待っています。もし、神様がお望みなら再会できるでしょう。世界(聖年)司祭大会の写真を送ります。」と書かれていました。今も写真と手紙は大切にしています。

 2年の間、トゥァン司教に教会法を習いましたが、そのころのことがいくつか思い出されます。大神学校ですから、北からも南からも神学生が集まり、それぞれが、それぞれの方言で、司教に質問をするわけです。司教は、質問と同じ方言を使って答えられました。

また、司教はユーモアがある人で、『みなさんは司祭になったあと、神様がお望みなら、司教になることもあるでしょう。司教には秘書が必要になりますが、秘書にはあまり目立って格好いい人を選ばないようにしてください。秘書がすばらしいと人の目に映ると、司教の影が薄くなってしまいます。司教代理はハンサムな格好いい人を選ぶのがよいでしょう。司教に先立って仕事をすることになるので、司教代理を見て、司教は立派な人だろうと先入観を持ってくれるからです。』と、私たちに話されました。

 司教がニャ・チャン教区の司教に任命されたとき、その前から居座って断固として移動に応じない小教区の司祭がいました。トゥァン司教は、司教は自分の持ち時間の半分を司祭たちのために用いるべきだという考えの持ち主でした。

この大御所の神父のこともずっと心にとめていたのでしょう。ローマに赴いた際、この神父を動かすための案を講じました。ローマからその神父の霊名のお祝い日にカードを送り、メッセージをしたためました。『最近の若手の司祭は言うことを聞かない。あなたの力を貸してください。私が帰るまでに荷物を片付けて移動する準備をしてください。任命書は帰ってから渡します。』と。司教がローマから帰ったとき、この神父は荷物を片付けていたということでした。司教は人の心を読むことができる人でした。

 私は今、大阪教区と大分教区から3人の志願者を預かっています。ここで、神学と哲学と日本語を学び、日本に行く準備をしています。これからますます日本とベトナムとの助け合いが、実を結ぶように祈っております。」

 ミサのあと、教会の客間で歓迎会がありました。枢機卿も単車で駆けつけてくださり、和やかに会食が始まりました。まず、赤ワインで乾杯をしました。婦人会の方でしょうか、ベトナムの家庭料理5種類(スープ、シーチキンと三度豆のライスペーパー包み、魚と薬草のライスペーパー包み、揚げ春巻き、焼き飯)を準備してくださり、次々とテーブルに運ばれてきました。

デザートには本場の竜眼とバナナが出ました。私たちのために集まってくださった聖歌隊が歌を披露してくださいましたので、返礼に「ガリラヤの風かおる丘で」をツアーガイドさんのオルガン伴奏つきで巡礼団が歌いました。枢機卿は一足先にヘルメットをかぶって、単車で大司教館に戻られました。主任司祭には有志が日本から持ってきたものをプレゼントしました。

 その後、1975年に終結したベトナム戦争の傷跡を伝え、平和を訴える戦争証跡博物館に寄りました。トゥァン枢機卿が幽閉されたところも、このようであったかと想像できる独房のレプリカがありました。人形を使って、どのように繋がれていたかも分かるようにしてありましたので、人間同士の仕業なのかと、戦争の恐ろしさを伝えるものを見るたびに考えることを、ここでも考えてしまいました。何人かの裸の子どもたちが道を泣きながら歩いてくる様子を収めた写真は、当時、報道写真として有名になっていましたが、真ん中に写る女の子は、今、カナダでお医者さんになっているということでした。

 このあと向かったホーチミンのカテドラル(聖マリア大聖堂)は、午後3時に門が開き、観光客に開放するということで、道路を挟んだ向かいにある中央郵便局で何分間かの時間待ちをしました。郵便局の中にはお土産になるような小物も売られていて、手紙を送るというよりも、買い物を楽しむ人の姿が目に入りました。

 郵便局からカテドラルに行くには道路を渡らなければなりません。日本での説明会のときに、「ベトナムに着いて最初に習わなければならないことは、通りを渡ることです。もちろん信号があるところまでいくのもいいですが、青だからといって安全だとは限りません。
信号のないところでは、とにかくゆっくり、ふらふらと歩きながら横断してください。ベトナムは右側通行ですから、まず、左から来るバイクや車に注意しながら、ゆっくり渡り始めます。バイクや車は、人の歩く速さを計算しながら向かってきます。それでも知らん顔して歩いていると、勝手によけて走り去っていきます。そこで人が走ると計算ができなくなるので、とても危険です。真ん中まで行くと、今度は右から来るバイクや車を見ながら、また、ふらふらと歩きます。何人かで渡るときは縦ではなく、横に並んで歩くのが一番です。」と指導されました。

そのときは、ガイドの歩いて見せる様子が酔っ払いのようでとても滑稽でしたが、まさに、そのようにして道を渡るのが一番だということを覚えました。もう4日目ともなると、皆ベテランになっていたようです。

 カテドラルはやはり大きな聖堂でした。十字架の道行は一つひとつが小聖堂のようになっていて、それぞれに聖人のご像も据えられていました。アシジの聖フランシスコも、ベトナムの殉教者のご像もありました。

 聖具を売る店が近くにあったので、立ち寄りました。日本と貨幣価値が違うことを思い知らされました。CDは、1万ドン(日本円で約80円)のものもあり、とりあえず買ってみようという買い物の仕方をした感じです。

 ここからデパートに行く予定でしたが、その前に旅行案内の本には必ず出てくるベンタイン市場を15分間という約束で見学しました。ベトナムの人でさえ、だまされることがあるので、よほど気に入って納得しない限り、買わないで見るだけにするように、とガイドさんに注意され、また、スリにあうこともあるという話を聞きながら、かなり心の準備をしてバスを降りました。デパートでは16時20分から17時半まで、それぞれに買い物を楽しみました。

 ホテルに18時少し前に到着し、約1時間の休憩を取ったあと、19時5分前に集合して「ソン・グー(二匹の魚)」に海鮮料理を食べに行きました。ここで巡礼中初めて、皆で揃って食前の祈りを唱えました。食事中、ダン・バウという一弦琴の生演奏があり、その不思議な音色に魅了されました。曲目には日本の歌を選び、日本人を意識したもてなしでありました。

(続く)

文:A.H;H.F 写真:N.K; J.S; A.T; H.F.



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