HOME    
会のご紹介 お知らせ 生活スケッチ
活動のご案内 ギャラリー 特集

マリアの御心会にみるみ心への信心

ド・クロリヴィエール師(1735〜1820)は、イエズス会士、フランス大革命下の二つの修道会の創立者、1814年から1818年に行われたイエズス会の復興者であって、キリストとマリアのみ心について独特の認識を持っている。非凡な霊的体験の実りとしての師の事業にはこの信心の印が刻まれているが、師はこの点についての大きな混迷が見いだされる時代にあって、その神学的基礎を新たにし、また、その見通しを開くのに貢献している。

Ⅰ 一つの霊的体験

ド・クロリヴィエール師はキリストのみ心についての自分の体験を表明するにあたって、深みのある多様な用語を用いています。「聖心」という語はまれにしか用いず、それはただ師の初期の著書(1763〜1770)に出てくるだけです。その後、この語は常に「イエスの(あるいは)マリアの聖なるみ心」と明示されます。師はたびたび形容語なしにみ心(Coeur)の語を用います。たいていの場合は「おん子の」、「神であられる人の」、「キリストの」、「イエスの」、「御母の」み心と明確にします。

また、師は「神的」、「あがめるべき」、「きわめて大いなる、きわめて美しい、いと聖なる」などの数多くの形容詞を使います。先人や同時代の人々と違ってマルガリタ・マリアによって伝えられた表象に準拠したことはほとんど一度もありません。その名は決してあげられていません。と言って当人を知らないわけではありません。師はみ心の信心とその普及の源については熟知しているのです。マルガリタ・マリアの信頼厚かったクロワゼ師の著書『私たちの主イエス・キリストのみ心の信心』(1690年)を読んでいるし、また、ド・ガリフエ師の著書『イエス・キリストのあがむべきみ心信心のすばらしさについて』(1773年)も知っています。そして、ラ・コロンビエール師の『黙想』を非常な関心を持って愛読していたのです。

これらの観念的な知識は自然と祈りの中に溶け込んでいます。師の熱烈な霊的生活はキリストのみ心への信心を培い、それに的確な色合いを与えます。養成期間から使徒活動の初期までを記している師の霊的日記がその若干の特徴を明らかにしています。

1762年に、パリの高等法院が、その管轄下のイエズス会の高等中学校の閉鎖を布告すると、当時、実習を行っていたド・クロリヴィエール師は同僚と一緒に黙想を行いました。この黙想の終わりに、師は「いかなる誤った、無益なあるいは無駄な言葉も、意識して、故意に口にしない」ことを誓い、続いて、「私はこの恵みを、あなたの聖なるご受難とご復活にお頼りし、また、槍の穂先と、愛によって貫かれたあなたの聖なるみ心にお頼りして、お願いいたします」と述べています。この誓いは日一日と、きわめていさぎよく、また厳しく実行されました。

1766年には、師は第三修練の黙想をイエスとマリアのみ心のご保護に委ねました。

「私はイエスの聖なるみ心の中にこもった気持ちでこの黙想を続けることにします。感情と愛情の最も親密な一致、行為と苦しみの一致をイエスと常に持ち続けるように努力するつもりです。[・・・] 神様、私はあなたにおん子のみ心を捧げます。おん子のみ心と一つになって、あなたをあがめ、愛し、あなたにお仕えいたします。そして、もはや決しておん子のみ心から離れることを望みません」。

師は熱情に駆られて、実際にキリストに似たものとなることを望み、もはやただ、そのみ心のうちにだけ生きようとします。幾度かこのことを繰り返し述べています。

「ああ、イエスのみ心、私のためにいつも開いていてください。そうすれば、私はあなたのうちに隠れ、安らかに憩い、祈りに励み、有益な償いを果たすことできるでしょう」。

イエスのみ心にこのようにひきつけられるにつれ、師はますます大きな浄化の必要性を覚えます。

「イエス様、私の不浄の心を清めてください。あなたのきわめて清らかなみ心から出るひとつの小さな火花が私の心の中に入りますように。そうすれば、私の心は燃えて、清められることでしょう」。

第三修練の終わりに定めた生活設計の中では師はこうも書いています。

「あの方々(イエスとマリア)との一致のうちに、私は祈り、苦しみ、すべてのことをしなければなりません。この二つの聖なるみ心は私の憩いの場、私の祈祷室、私の学校、私の避難所、私の中心となるでしょう。そこから私を引き離すことのできるものは何もありません」。

以後、イエスのみ心とマリアのみ心は師の観想の対象、活動の源となります。そして師はそれから多くの慰めを受けるのです。

1771年の黙想は、師の伝記の一つでは「聖なるみ心の黙想」と呼ばれていて、いかにして、み心というものが師の生活の全体を占め、その中心となるまでに至るかを示します。

「この修行から私が得ようと意図する実りは、私たちの主に対する強い愛と、主とのより全面的な一致および相似です[・・・]。 私の黙想はイエスの聖なるみ心の中にこもって行なわれなければなりません」。

師は、キリストのみ心を見つめることによって、内的生活はますます深まり、思いは−まずご受難の神秘に関した後−いっそうキリストの思いに近づいていきます。

「しかるべく愛するためには、私の心とイエスのみ心はただ一つでなければならないでしょう[・・・]。この目的にいたるためにはどれ程の熱意が必要なことでしょうか。心からの熱心さと望みは決して十分すぎることはありません。私はそれらをイエスのみ心のものに合わせて培う必要があります[・・・]。もし私になにか選ぶことが許されるとしたら、私は聖なるみ心がお好みのことに決めましょう」。

しかしこのようにほとばしり出る熱情は、苦行とか他の人々への奉仕などの、日常的な事柄を具現してゆくうえで、何事も省くことはありません・・・情的内的生活は修行が要求する活発な奉仕の気持ちと一体となります。み心についての師の観想は根本的にイグナチオ的なものです。

師の霊的日記で以上の時期以後のものは残されていません。内面生活、キリストとの類似、一致、このようなものが師の体験の主な特色であって、この体験は、劣らず独自な使徒的事業の中で具体化しながら、絶えず深められていきます。

(Ⅰ 終り − 続く)



▲ページの先頭に戻る

 HOME>特集

Copyright(c)2007 Daughters of the Heart of Mary All rights reserved.