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日本支部の初代院長マドレーヌ・ルロワのこと

マドレーヌ・ルロワについて二人の方が書かれた記事からの抜粋。

I

  「私は明泉寮の寮生たちが、自分たちの教育に当たっている人たち、つまり「マリアの娘たち」の会(マリアの御心子女会)の姉妹たちに、どうしても質問したい質問、質問する権利のある質問に、代わって答えてみたい。

 つまり、”マリアの娘”とはどうあるべきか、をである。

 正直言って、私はマドモワゼル・ルロワが来日するまで、「マリアの娘」をよく知らなかった。われわれの間に彼女が生きていた、あのあまりにも短かった年月、私はしばしばマリアの娘とはどんな人たちなのだろう、と考えていた。そして彼女がどんな風に、その行為と影響を日本にもたらすのだろうかと。
 もし、彼女がこの世にもう少し長くとどまっていてくれたなら、彼女はそれに、より一層明快に答えてくれたことだろう。そして、今日われわれは彼女を呼ぶのに、マダムとか、プロフェッサーとか、シスターとか、どんな肩書きも用いずに呼ばなければならないのを知るだろう。
 なぜなら、マドレーヌ・ルロワこそ、骨の髄まで、日本の”マリアの娘”だったのだから。
 彼女が早逝された翌年の夏に、私は東フランスのシャンベリーで、リセ・フェヌロンでルロワの同僚だった二人の婦人から言葉をかけられた。
 「マドレーヌ!、私たちは、彼女が修道女だったことさえ知りませんでした!」と。

後日、これとよく似た話を、故人になられた有島暁子女史が書き残されているのを知って、私は二重の感慨にふけったものだ。修道女であっても、社会の一員として、それを他人に気づかせない、その微妙な社会人としての奥義、これこそ、真の修道女に他ならないと思うからである。」

(ポール・リーチ神父:イエズス会士;1989年記)

II

 「ルロワ先生は1902年6月23日、フランス、ヴァンデのラ・ロシュ・シュール・ヨンで生まれた。1922年、セヴゥル高等師範へ入学。1925年卒業。数学教授の資格を得、直ちにナントの女子高校(リセ)へ就任。1933年まで教鞭をとった。
 1930年マリアの御心子女会へ入会。1933年、パリへ移転されてからは、フェネロン高校で1959年まで数学を教授された。
 ルロワ先生が神の召し出しを受け、この修道会を選ばれたのは、恐らく今は亡き、ただ一人の姉上が同会の修道女であったことと、会則が家族との同居を許し、92歳の高齢で亡くなられた母上に最後まで娘としての孝養を尽くすことができたからかと思われる。
 彼女が長年教職にあったのは、使徒職に従事したからで、またパリでは、フランス・カトリック・知識人連盟(CCIF)の設立に貢献し、秘書として活躍したのは有名である。
 一昨年私の友人が、ジャン・ギットンとガブリエル・マルセルを訪問した際にも、ルロワ先生の近況をしきりに尋ねられたそうだ。
 (・・・)
 1959年、マリアの御心子女会は上智大学より、女子寮創立の依頼を受けた。
 4月ラスコル総長が視察に来朝し、前犬養邸を信濃町に購入、修道院とし、敷地の一部に寮の建設を決定した。
 同年10月初代寮長として任命されたルロワ先生は来日するや、直ちに建築に着手した。
 パリ東洋語学校で、日本語の勉強を始めたばかりだったので、まだ日常の会話がやっと通じる程度なのに、設計はもちろん、現場監督まで自らあたり、微細な点まで注意を怠らなかった。その用意周到さはルロワ先生なればこそである。
 1960年4月、まだ建築中ではあったが、先生は修院の2階と3階へ20名の上智女子学生を入寮させた。一日も早く日本の若い女性に接したかったからである。
 1961年4月15日、盛大な開館式を行い、80名の寮生を迎えた。
 明泉寮の設計、設備を見れば、頭脳明晰、繊細な心情の持ち主、初代寮長の人格をよく表している。
 (・・・)
 羽田空港にルロワ先生をお迎えした時のことである。ご挨拶すると、
「ガブリエル・マルセルとジャン・エスメイン夫妻があなたにくれぐれもよろしくと言っていられましたよ」と言われて驚いた。世間は狭い。10年前、エスメイン夫妻は駐日フランス大使館付武官補佐として2年間滞日中に知り合って以来の旧知なのである。
 1年半前、エスメイン夫妻が再び来朝したので、ルロワ先生も私も大喜びしていたのに、計らずも先生を多摩墓地まで一緒に野辺送りすることになった。車中、エスメイン氏は、
 「マドモワゼル・ルロワとはアパートが隣同士で長いつき合いなのに、彼女がマリアの御心子女会に属していることだけは日本へ来るまで知りませんでした」と言われ、フランスの知識人の中には信仰を失っている人が多いので布教活動に干渉するために、先生はご自分が修道者であることを他言しなかった、と言っていられた。(・・・)」

(有島暁子;1965年記) 


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