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  • 日本支部創立の頃 (マリアの御心会本部への報告書より)
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  • 日本支部の初代院長 マドレーヌ・ルロワのこと

日本支部創立の頃 (マリアの御心会本部への報告書より)(8)

 1961年2月2日、私たちは大きな喜びのうちに、東京ではじめての奉献式を行った。バルドから送られた本部修練院の白い衣装に身を包み、彼女は確信に満ちた態度で、私たちのこじんまりしたチャペルのむつまじい雰囲気の中で、日本語による奉献を行った。彼女を迎えた共同体の仲間であったルロワ、アンケとエリカが三声で主のお恵みを願う歌を歌った。
 その後すぐに、聖堂は私たちの寮に入ってくるはずの学生には小さすぎるようになり、その時までルロワの寝室であった隣の部屋全部にまで広げることになった。それで40人ぐらいが入れるようになり、香部屋と聖堂を隔てる仕切りのような紙の「ふすま」という扉をあければ、何人かはベンチに、何人かはほとんど邪魔にならないクッションに座って、60人まで入ることができる。
 この同じ年、日本人会員第一号が、パリで初誓願をたてた。何ヶ月かあとに修練院と本部を離れるのに彼女は断腸の思いもあったが、戻ってきた東京では日本人の立願者の存在があまりにも役に立つものだったのである。
 1962年7月には日本人志願者が1人入会し、フランス・シュヴィヨットが到着して、私たちのメンバーは4人から7人になった。
 そこで、何度かにわたり、ときには明白な形で要望のあった社会活動の構想を立てることになった。私たちは数も少なく日本語も話せないため、何かの事業を始めることはできなかった。しかし、宣教者がどこの出身であろうと技術面で何も教えるものがなく、戦後の経済の立ち直りが世界を驚かせているこの国民のそばで、マリアの御心会がとりかかるべき仕事は何であるか。ルロワは少なくとも、それを知り理解しようとするため、接触を持ち情報を手に入れるように努めていた。多くの問題がないわけでなく、人口過剰も最小の問題ではない。それから、台風、地震、大火事など、日本に特有な災害も加えなければならない。一家全体が、またしばしば100人ぐらいの人口が、一夜のうちに無一文になってしまうこともある。

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